これは、何気ない日常を切り取った短編集である―――
百万冊ありそう。
この書き出しで書評を書き始めることができる小説が、恐らく日本中に百万冊はある。
だからと言って、本書が凡庸な短編集ということではない。
本書はその百万冊の上位数%に入るクオリティだと私は思うからだ。
ふとした日常に訪れる一瞬のきらめきを、ここまで美しくかつ端的に切り取った短編集はなかなかない。何より怖いのは、捨て作がないことである。鷺沢萠恐るべし。
30年以上前の本なので、描かれる日常風景はややセピアだが、描かれる人間の心情は30年程度で変わりはしない。色あせない名作である。
感想
日常を切り取る難しさ
ここまでずっと日常がどうのこうの言っているがもう少し書かせてほしい。
「なんでもない日常を描く」とか「日常のふとした瞬間を切り取る」とか、本や映画の紹介でちょくちょく聞く。だが、日常で物語を面白くするのはめちゃくちゃ難しい。
何でもない日常は本当に何でもなくなってしまうからだ。
何でもない夜に二度とは戻れなくなったから虎舞竜も『ロード』を唄えるのである。
多くの人間はドラマを求めて小説を読んでいる。なのに、登場人物がだるそうに授業に出席していたり、バスタオルを替える頻度で喧嘩をしていたりする場面が延々と続くと「ツイッターでやってくれ!」となってしまう。
※ツイッターという媒体で面白い小説を書いているアカウントもいっぱいあります、念のため
かといって、殺人が起きたり、幽霊や超能力や宇宙人が出てきてしまったりした日にはそれはもう日常を切り取った小説ではなくなってしまう。
本書は、この塩梅が非常にちょうどいい。
よくありそうな日常に起こるちょっとした事件や気づき、それによって人々の気持ちが揺れ動く様子。
あくまで出来事は日常風景の中に、しかし登場人物の心情はややドラマチックに、というバランスが素晴らしい。
このバランス感が、日常を描きつつ、読んでる人の心を刺すという離れ業を成功させている。
この「ちょうどよさ」にさらに拍車をかけているのが、描写の上手さである。
末端書評ブロガーがプロの作家に描写が上手いなどと言うのは、おこがましいことこの上ないのだが上手いのだから仕方がない。
登場人物の心情が、ちょうど読者に汲み取れるように書いてある。
「この人物はね、ここでこう思ったんですよ!」といった押しつけがましい説明がない、一方で、どういう気持ちなのか推し量れないこともない。
「この人物はこういう気持ちなんだろうなあ、なんとなく分かるなあ」とちょうど読者に思わせるような描写。「描写とは説明ではない」を地で行く美しい文章が本書を構成している。
『指』の感想
全ての短編の感想を書くわけにはいかないので、一つ選んで書いてみる。
二本目に収録されている『指』。
国語の教科書に掲載されたこともある短編なので、読んだことがある人は多いかもしれない。
【あらすじ】
舞台はガソリンスタンド。主人公は喜一という20歳前後の自動車整備士。青い作業服をいつも着て働いている。浩司と悦子という同僚がいる。悦子は顔はそこそこかわいいが、仕事の都合上、手がとても荒れてしまっている。悦子はそれを気にして、いつもこっそりと洗面所でハンドクリームを塗っている。喜一はそんな悦子が好きだった。
ある日、一台のアウディがスタンドに入ってきた。乗っていたのは若いカップル。左側のヘッドライトが壊れていて、交換をお願いしたいと言う。浩司は面倒くさいので帰ってもらおうと提案するが、助手席の女が気になった喜一は、ライトの交換を引き受ける。
修理をしている間、女は喜一の横で作業の様子を見ていた。奇麗な女だった。女の香水が香った瞬間、喜一は自分の黒い指が憎らしく思えた。女の指はしなやかに長く濡れたような赤いマニキュアが塗ってあった。
喜一の作業が終わると、悦子が声をかけてきた。アウディの女を見た後で、好きだった悦子が急に喜一には野暮ったく映った。女はバッグを車から取り出して、会計をしようとした。喜一は、お代を貰わず、追い立てるようにアウディを出発させた。走り去る車のテイルランプを見つめる喜一に、悦子はポンと肩をたたき、浩司は「バカ」と声をかける。喜一の足もとには、濡れたコンクリートが黄色い灯りに光っていた。
描写が上手いという文章を書いた後に、あらすじを書くの、ハードルが高すぎる。私では繊細な心情描写を再現するのは無理だった。
内容はほぼあらすじの通りだが、描写を堪能してほしいので、このあらすじを読んだだけで作品を理解した気にならず、ぜひ本文を読んでほしい。
さて、ここで描かれているのは、喜一の女に対する複雑な感情である。
ガソリンスタンドで油にまみれている自分とは違う世界に住む女。自分が想いを寄せる悦子より世間的に見てはるかに「イイ」女。
そんな女に対する、いいところを見せようという気持ち、汚れた指を見られた羞恥心、プライドからくる対抗心、(性欲)、と言ったようなものが修理中の喜一の心に渦巻く。好きだった悦子が野暮ったく見えるほどに女への意識が集中していく。
しかし、そんな喜一の気持ちとは裏腹に、修理が終わったらすぐ会計に移ろうとする女。どんなに手際よく修理をしたとしても、向こうとしては喜一を男としてこれっぽっちも意識していない。それに気づいた喜一が取れる、唯一の自己保身は金を貰わないことだけだった。端から見れば守る必要もないような小さなプライド。しかし、20歳そこそこの男には必要なプライドでもある。
自己保身をしたにもかかわらず、走り去るアウディを眺め続けてしまう喜一。
その視線には様々な感情の残滓が乗る。届かない世界が走り去っていく。
気が付くと横にはいつもの仲間。体の内側には熱の余韻が残るだけ。
これだけのドロドロとした感情とその変化を、ものの5分で読める短編の中に詰め込んでいる。
どこまでの感受性と言語化能力があればできるのだろうか。
さらに、青い作業着、赤いマニキュア、黄色い灯など、ガソリンスタンドが舞台の小説で信号の色を忍ばせるという粋な演出もある。おっしゃれー!
押しつけがましい説明がないのがいいと言った後にこんな説明口調の感想文を書いていいものか。
もしかしたら、悦子より今の私のほうが野暮ったいかもしれない。
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